マチナカ年代記

ぼくが考え、書いてきたこと。

2401:正木さんの「論考」を歓迎する(結)

今回をもって、標題に「正木さん」を冠するエントリーを完結させたいと考えているが、この先には、より広く「信仰」や、他者一般との「対話」について考えることへと開かれるようだといいと思っている。それは私の実力では届かない地平と思うが、このささやかな論であっても、何か・誰かに、「悪」というレッテルを貼って足れりとすることは避けたいのだ。

さて、年末の正木さんの「論考」は、最後の4分の1程度を割いて、氏の実際の見聞に基づいた創価学会への「進言」で締めくくられている。まず、氏は創価学会全体としては、教勢は緩やかに衰えていくとしている。これは、日本社会全体が少子化「だけではない」衰退傾向にある中なので、否定し切れないものだ。実際に、例えば教学試験*1の受験者は低減傾向にあるし、会合への参加者も「高齢化」の傾向は否定できるものではない。しかし、この「論考」の真骨頂はここから先にある。

例えば、名誉会長の「呼びかけ」に元気よく「ハイ!」と一斉に応えること。例えば、女性部員*2の方々の、いささか画一的に見える服装や髪型、メイク等。こうした、外面的「だからこそ」直接的に感じてしまう「違和感」の遠因にまでも、正木さんは言及されている。これらは概ね、個々の会員たちが「池田名誉会長に喜んでいただける」ものとして、言わば「忖度」することの集積として現象するのであって、そうした組織的な指導がされるものではない。だが、その「忖度」こそが、個として屹立し、個性化を開花させることを摩耗させることにはなってないだろうか。これは、できれば会内の方々と、心ゆくまで語り合いたいところである。

さて、私の今後の「論」の展開について、少しばかり述べておきたいと思う。それは、日常会話の中に、「政治性」と「宗教性」が恢復され、獲得されることを目指そうというものである。なぜか。それは、いわゆる「失われた30年」の遠因は、この国と社会とが、「内発的動機づけ」を見失ってしまっているからに他ならない。リースマンのいう「他人志向」型がデフォルトになって久しいからだと思うのだ。それは、日常会話において、政治と宗教とを話題にすることが忌避されていることとも、著しい関係があると思っている。

そのためにも、信仰を持つ人には、外部の信仰を持たざる人と、また、特定の政治的志向性を持つ人には、敵対する他者との、建設的な「対話」に向けての努力を、今すぐにでも開始していただきたいと思うのだ。正木さんの投じた一石が水面に広がった波紋は、必ずそうした方々へと届くものと確信している。

*        *        *

今回で、一旦この標題でのプチ「連載」は終えることとしたい。今後は、少しずつ宗教二世「問題」を扱った書物を読み解いていくことも課題としていきたいと考える(例えば以下のもの)。お読みくださいましてありがとうございました。とりわけ、掲載を歓迎してくださった正木さんには感謝申し上げます。それではまた!

 

 

*1:日蓮教学あるいは「創価教学」等の「教義」を、試験という体裁で学習し、内面化させるための制度と考えていただきたい

*2:以前は「婦人部」「女子部」と分かれていたものが統合された