マチナカ年代記

ぼくが考え、書いてきたこと。

2401:正木さんの「論考」を歓迎する③

昨日までの2件のエントリーで、私は正木伸城さんが年末に発表された論考についてのコメント的な文を書いてきた。以下からご覧いただける(ようにします)ので、適宜ご参照いただきたい。

今回までのエントリーは、私は正木さんの論調、すなわち「創価学会組織の『強さ』の淵源とは、時として揶揄や批判の対象ともなる故・池田大作名誉会長の『カリスマ性』(とされてしまうもの)にあるのではない。名誉会長が、一人ひとりの会員との『一期一会』の出会いを、『信心』の原点として刻むことに心を砕いてきたそのことにある」という点に賛意を示した上で、私の体験を付記しようとするものである。この記事では、正木さんが書いていること以外の点について、傍証として書くこととしたい。

前回は、正木さんが紹介されていた記念撮影の会で見せた名誉会長の心配りと、その場に「責任者」として居合わせていた正木さんの父君のエピソードについて書いた。今回は、私が直接見聞している事例についても記述したい。

私がまだ30代の時のことである。地域の男女青年部員同士が、晴れて結婚することとなった。こういった「ライフイベント」について、創価学会員は、極めてしばしば名誉会長に個人的な手紙を、創価学会本部経由で送ることがある。そういった、個々の手紙や報告について、名誉会長は相当な確率で「返礼」をしている。もちろん、そういった指示を出しているということなのだろうが、この夫妻の門出には、祝福のメッセージと共に「夫婦箸」が届けられていた。

また、2007年だったと思うが、世界的なチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏が死去された時のことであるが、私は創価学会として、あるいは創価大学や民音*1として、氏を顕彰すべきではないかと具申した。しかし、窓口で応対してくれた係の人は、悲しいかな氏のことを知らずにいたのである。ロストロポーヴィチ氏は、名誉会長とも親しくしていた故・ゴルバチョフ氏と盟友関係にあったし、作家・ソルジェニーツィンを支援するなどの人道活動家としても知られていた。氏の死去を悼み、顕彰することは当然なのではないかと私は考えていたが、そもそも、会内でそれほど知られていないということに愕然としたのだった。

しかしながら、幸いなことに民音の理事を務めていた人が、地域組織の担当幹部だったこともあり、その人と相談した上で名誉会長宛ての「手紙」を書くこととした。数日後、その担当幹部が拙宅を訪れ、名誉会長名義での礼状と菓子折りを届けてくれた。

私は、その時点で、こういった返礼がされることがあることを既に知っていたので、取り立てて感激することはなかったのだが、厳粛な気持ちになったことはまだ覚えている。

肝心なことは、多くの創価学会員が、こうした名誉会長との「個別」のエピソードを、それぞれの「信心の」原点として刻み込んでいて、それがあるからこそ「平気で」生きていけるとまでに純化していることではなかろうか。つまり、信心の、さらには「生の」原点として、困難に直面しても、常にそこへと立ち返り、そこから再出発することができる「思い出」を、その胸中に刻み込んでいるのである。そうした「原点」を持つ人は、強く、そして「幸福」なのではあるまいか。

次回は「まとめ」として、正木さんが書いてくれた「批判的進言」について書き、全体を締めくくることとしたい。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた。

*1:民主音楽協会。創価学会を母体とする、音楽・芸術鑑賞団体。