マチナカ年代記

ぼくが考え、書いてきたこと。

2402:人はなぜ、言葉によって変われるのか~若松英輔『藍色の福音』を読んで

 

 

こんにちは。

「ファン」であることを隠す必要もなくなった、若松英輔さんの最新刊の一つ(刊行ペースが早いのです!)です。当初、初の「自伝」的著作と考えていたのですが、刊行の経緯として、『群像』誌に掲載されたものをまとめたとありました。それを見て、河合隼雄について連載されたものだったと推察するようになりました(が、「河合論」は別立てのようでした)。

若松さんにとっては言葉、なかんずく「コトバ」と表記する場合のそれは、とりわけ重要な意味合いをもっています。今回はそのことを少しばかり考えてみました。

「コトバ」とは、単に「言語」「記号」であることを越え、表出し切れない/し得ない「意味」に接しているものと言っておくことが可能だと思います。詩作にあたってもですが、たったひと言の、自分を支える「コトバ」を、自分の中に探し当てることが重要であるとおっしゃっている。

では、なぜ「コトバ」が、自分を支え得るのか。あるいは、自分を「変え」得るのか。そのことを考えておくことは重要だろうと思うのです。私は、それには2つの側面があると考えました。まず1つ目が、「コトバ」は、いのちの深みから発せられているものだということです。そのことに気づいた時、自覚できた時、「コトバ」で自らは支えられ、自らが変わり得るのだと思われます。

もう1つは、世界ないし他者との関係性を、「コトバ」は編み変えるということです。この2つについて、もう少し考えていきたいと思います。

まず、「コトバ」がどこから発せられているのかを考えていきたいと思います。それは、意識という次元からだけではないと私は考えます。もう少し深い所、つまりは「心」ないし「こころ」から、もう少し言っていいのなら、「たましい」とか「いのち」といった座から発せられているのだと思うのです。ここに至ると、「こころ」は単に「意識」であることから、より「からだ」とも深く交わり合っている(つまり未分別の、根源的な)「いのち」という層につき当たります。意識やこころの力(=エネルギー)と、肉体・からだの力とに分かれる以前の、「より」根源的な「ちから」が、コトバを発しているものの正体だろうと考えます。それ故、適切なコトバが見つかり、あるいは与えられることは、いのちの次元を耕すこととなるのです。だから、コトバは自らを支え、あるいは変えうる「ちから」となるのだと考えます。

もう1つは、「自分にとっての」世界の再編に関わります。それは、自分の気持ちや感情、あるいは外界のことがらを、新しく、あるいは、正しく「命名」することで、世界が刷新されるということに関わります。

例えば自分の落ち着かなさや情動について、それを「悔しい」とか「悲しい」と命名することで腹落ちする。つまり「かたち」を与える。そのことは、自分との関係や、世界や他者との関係を刷新していることになるのです。

つまり、「コトバ」とは、「いのち」を耕し、自分を支え、世界と他者との関係性を再編・刷新する。そうした、機能というだけでは収まりきらない「ちから」を有しているもの(あるいは「こと」)なのだと考える次第です。

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今回は以上といたします。最後までお読みくださり、ありがとうございました。考えるヒントを与えてくださった、若松英輔さんにも深謝いたします。それではまた!